[henyohenyo]ペットロス

今日は、今のところ一度しか大泣きしてません。
大泣きの理由は、やはり寂しさもありますが、友達からのメッセージがうれしくて泣いたのでした。久しぶりに、悲しさ100%じゃない涙が出ました。

私には素晴らしい家族と友達がいる。
まるであたりまえのように思っていたことが全然あたりまえじゃないと、改めて気づかされる毎日です。
いつまでもメソメソしてちゃいけないな。

今は、自分が心から納得できて少しでも幸せになれるような死生観を身につけたいと思っています。
今のところ、このページに書いてあることが一番すんなり心に落ちてきたので紹介します。
http://sourumeito.sakura.ne.jp/R18.htm
これとは全然違うアプローチで書かれた書籍も1冊購入してみました。明日届くと思うので、良かったら紹介します。

-----

今日ちょっとだけ元気なのは、実は理由があります。

昨日の夜、夕食後にリビングでぼんやりしてたら目の端に動くものが。
何気なく目をやると、そこには小さな黒いクモがいたのでした。私が気づくと同時にカズオさんも気づいて、ふたりでじーっと眺めていると、そのクモ、どう見ても遊んでるの。私の電子ピアノの楽譜立てから糸を出して10cmほど降りてきたと思ったら、上につーっと昇る。また降りてきたと思ったら昇って。3、4回やってから、その場に止まってこちらをじっと見てました。
思わずカズオさんと顔を見合わせて「あれはふくだね!」と笑ってしまいました。

私、別にオカルトとかスピリチュアルに興味は無いけど、誰がなんと言おうと、あれはふくちゃんだと確信しました。イキモノの殻を脱いで自由になったふくちゃんは、きっとこれからもクモや風や何かの動物になって、時々私たちに会いに来てくれるはずだと。だから寂しくない。寂しいと思うのは(できるだけ)止めようと心から思えました。

ちなみにそのクモは、その後ちょっとしたらどこかに消えてました。

-----

さて、私はこのうっとおしいブログを、もしかしたらいつか私と同じ状況で苦しんでいる人が見てくれるかもしれないと思って書いてます。だから、これも参考になるかもしれないから書くのですが、私は、ふくちゃんの最期の姿を思い出すと感情が乱れてどうしようもなくなります。呼吸がおかしくなってパニックを起こしそうになります。あの光景は、たぶん一生私の脳裏から消えることは無いでしょう。

事故死であれ病死であれ、愛したものの最期の姿はおそらくそんなに美しいものではありません。亡くなる直前の様子など、何度思い出しても胸が張り裂けそうになると思います。

だけど、その記憶だけは無理してでも封印すべきだと思う。
そんなのは彼らの本来の姿じゃないし、かわいそうな姿を何度もかみしめるのは彼らに失礼だと思うから。

私はふくちゃんの魂を自分の中に入れて、これから一緒に生きていくつもりです。
考えてみれば、すでに亡くなった私の祖父たちも同じなのです。私の中にいて、私の一部になってくれている気がしています。おじいちゃんたちは私が子供の頃に亡くなっていたり、実感が沸かない状況で亡くなってしまったこともあって特に強く意識したわけではありませんが、いつの間にかそういう感覚になっていました。

ふくちゃんが私の心の中に「居る」のなら、私が考えたり感じたことが伝わってしまうかもしれない。
それなら自分の最期の姿なんて何度も見せたくない。
そんなの、あまりにかわいそうじゃないですか。

だから、もし私と同じように最期の姿がフラッシュバックしてその都度苦しんでいる人がいるなら、記憶がよみがえりそうになった瞬間に無理やりねじふせて追い払ってほしい。
思い出しているのは自分自身です。がんばって自分で追い払おう。

私は、これだけでもずいぶんと楽になりました。ホントだよ。

| コメント(4) | トラックバック(0)

コメントありがとうございます。ホントすみません。
とりあえず、1週間くらいはこんな感じで気持ちの変化をつづってみようと思います。
それまでにはちょっと元気になるといいな。

今日は雨でした。
これでようやく、道路に流れたふくちゃんの血が洗われる。

臆病な私は、事故現場を掃除することができませんでした。血を洗い流してしまうことが、ふくちゃんの生きた証をひとつ消すことになるような気がして。でもその一方で「見た人に万一心ないことを言われたら」と思うといてもたってもいられなかった。だから早く雨よ降れと念じ続けていたのです。

これでまたひとつ、区切りがついた気がする。

ほっとしたせいなのか、今日は身体がおかしいです。だるくてだるくて動けない。
震えるような号泣は今のところ一度も無し。でも、だらだらと勝手に流れ出すような涙は昨日より多いかな?

-----

今の自分の気持ちをできるだけ冷静に分析してみました。

もともと、まだ子供猫であるふくちゃんに対する依存の気持ちは無かった(ねこちゃんに対しては、ある)ので、いなくなったことで「どうしよう」といった混乱はありません。
もちろんそれだけではなく、周りにいて助けてくれるカズオさんやねこちゃんの存在に支えられているおかげなのですが。

また、不幸が重なった上の事故だと考えているので、見知らぬ誰かや自分を責める気持ちをほとんど持たずに済んでいます。まったく無いと言うとウソになりますが。

では今の私の悲嘆の原因は何なのかというと。
もう一度会いたい、抱きたい、と不可能なことばかりを考え、それが叶わないことを思って涙を流してます。
また、「あの事故の前まではあんなに幸せだったのに、なぜ今はこんな気持ちでいなくてはならないんだろう」といった、これまたどうしようもないことを悲しんでいます。

ここまで考えて、ひとつのことに気づきました。

いま私が涙を流している原因はすべて「自分基準」だと。
ふくちゃん自身を思って泣いているのではなく(もちろんそういう時もゼロではないのだけど)、かわいいふくちゃんに会いたいのに会えない自分、悲しみにくれている自分を嘆いているのだと。

このことに気づいたからといってすぐさま感情をコントロールできるかといえばそんなことは無いのですが、結構自分勝手な理由で泣いているんだな、やっぱり結局は自分自身の問題なんだな、と改めて気づいたわけです。

ふくちゃんは、生前と何も変わらず...いやむしろ生前よりしっかりと私の中に息づいている。
それなのに、自分で自分を悲しみの底に追い込むようなことは意味が無い。そんなこと誰も望んでない。

-----

ふくちゃんみたいにあっけらかんと逝ってしまった子は、またすぐに生まれ変わってくる気もするんですよね。神様から「もうちょっと落ち着いて修行してきなさい」って言われて。
もし生まれ変わってきてくれたら、見た目は違うかもしれないけどまた会えるかもしれないなぁ...とか思うと、ちょっとだけ楽しくなります。

| コメント(1) | トラックバック(0)

涙の量が減っています。

今日はふくちゃんが骨になって帰ってきました。
カズオさんと受け取りに行って、ちょっとだけ海に寄ってから家に帰ってきました。生身のふくちゃんを(ねこちゃんもだけど)海に連れていくなんて考えられないから、なかなか貴重な経験。

一応骨壷のなかものぞいてみました。
顎の骨についてる立派な歯を見たら、じゃれてかまれたときの痛みを思い出して切なくてまた泣いてしまいましたが、そこにあるのはやっぱりもうふくちゃんでなく「物体」でしかない、とつくづく感じました。だから、執着する気はありません。
良いタイミングで庭に埋めようと思います。

今日一番泣いたのは、洗濯物を干すとき。

ふくちゃんは、私が2Fのベランダで洗濯物を干すときに、何が面白いのかかならず一緒にベランダに出て少し離れた場所に座って私の様子をじいっと眺めるのです。しばらくすると飽きてベランダから部屋に入ってしまうんだけど、全部干し終えて私が部屋に戻るとかならずそこに前足をそろえて座っていました。
見守ってくれているようでうれしくて、面倒な洗濯が楽しい時間に変わったものです。そう、あの日の朝も、ちょこっと首をかしげながら見守ってくれていました。

こんな思い出も、もっと時間が経てばにっこりしながら回想できるんだろうけど、今の私はまだまだ欲深いので「なぜここにいないのか」と涙が止まらないわけです。

でも、確実に涙の量は減っています。
理由はわかってるんです。家の中で生前のふくちゃんの幻を見て胸がぐーっと締め付けられたときに、「さみしい」と言わずに「ありがとう」と口に出すことを始めました。そうすると、不思議と悲しさが半減するのです。

こうやって、ちょっとずつ前に進んでいかないといけないんだね。残された者はそうやって前に進むしかないんだね。ふくちゃんは私に、ただ生きていくことの大変さまで教えてくれました。ありがとう、ふく。

| コメント(4) | トラックバック(0)

※2/25 表記をフク→ふくに変更しました。

みなさま、メールやコメントありがとうございます。ものすごく励まされています。

私はこれまで、不幸をすぐさまブログにしたためるような人のことを「本当に悲しいんだろうか」と疑問に思っていました。でも実際にその立場になってみると、書かずにはいられないことが分かりました。書く人は、たぶん自分の気持ちを整理するのに必死なのだと思う。
というわけで、辛気くさいのが苦手な人は、しばらくの間このブログをのぞかないようにしてください。

ふくちゃんが死んで一夜明け。当日は呆然とする気持ちが強かったのですが、今日は悲しくて悲しくてなりません。
とはいえ、やることなすこと何もかもに「自由」という言葉がぴったり当てはまる子だったので、「なんだかふくちゃんらしいや」という気もしています。間違いなく、他の猫の何倍も自由に楽しそうにイキイキと生きていた。
そんな気分になれる瞬間は、つきものが落ちたようにフッと気が楽になるのですが。

途切れない涙をもてあましつつ、ペットロスにならないための方法をネットで調べました。
ペットロスにならないためには「生き物はかならず死ぬ。それは自然なことだ」と考え、死を素直に受け入れることが大事だそうです。
「なんで死んじゃったの?」「帰ってきて」「あのときこうしていれば」といった思いを抱えているといつまでたっても死を受け入れることができず、泣き続けることになるそうです。今の私はまさにペットロス状態。

カズオさんがタオルにくるんで抱いていたふくちゃんは、紛れもなく死んでいました。頭では分かってるんです。でもね、ほんの30分前の元気な姿がしっかりと目に焼き付いているんだよね。だからなかなか受け入れられない。

早く、「ふくちゃんの自由すぎる生き様あっぱれ!」と素直に感心できるようになりたいです。
それまでに、あとどのくらいの時間が必要なのか。早く元気になりたいよー。

写真は、これぞふくちゃん!の表情。この、どこを見てるんだか分からない目でよくこちらを見てました。

18:25追記:
猫を外に放すことは、一般的に「やってはいけないこと」です。
私もこのことについてはよく知っていました。事実、ふくちゃんと暮らし始めたときには絶対に外に出さないつもりだったのです。ただ先住のねこちゃんは朝夕に10分程度庭を散策する習慣があり、ふくちゃんがねこちゃんを真似て外に出ていってしまうようになるのは時間の問題でした。そしてやっぱり、外で走り回るふくちゃんは見るからに楽しそうでした。たまにねこちゃんも一緒になって追いかけっこしたりして、ねこちゃんにとっても楽しい時間だったのは間違いありません。

私の家はかなり静かな住宅街にあり、ふくちゃんの事故現場となった道路にさえ出なければ車の往来はほとんど無いのです。あったとしても徐行。だからこそ、「怖がりのふくちゃんが、まさかあの大通りに出るわけがない」という勝手な思い込みがありました。私が悔やむのは、外出そのものというよりは、この思い込み一点についてです。メスとオス(去勢済みとはいえ今は繁殖期)の行動範囲はくらべものにならないのかもしれません。

そして、一撃で致命傷になるほどのぶつかり方をしてしまったこと。まだ明るい時間帯だったので、ふくも自動車もお互い危険を察知できたはずなのに。運が悪い、としか言いようがありません。

いま、誰かを憎んでしまったら這い上がれないところに落ちてしまう気がするので、自分も含め誰かに責任があったと考えようとは思いません。でも、このどうしようもないふたつの事実を悔やんでも悔やみきれない自分がいるのは事実です。

| コメント(11) | トラックバック(0)

今日の16:00すぎ、ふくちゃんが事故で死にました。
うちの前の、そこそこ交通量がある広い道路に血を流して倒れていました。車にひかれていました。

たまたま家にやって来たかよのちゃんが教えてくれたおかげで、まだ暖かいふくちゃんを連れて帰ることができました。かよのちゃん、ありがとう。

ペット霊園に電話したらあっという間に棺におさめて連れて行かれてしまったので、ふくちゃんはもうこの家にいません。

ふくちゃんが我が家に来てから1年と4ヶ月。短い期間だけど、ふくちゃんのインパクトは相当大きいので、あの子がいない生活に慣れるのに少し時間がかかりそうです。

先住のねこちゃんの手前(?)、ここにはあんまり書いてきませんでしたが、かわいくてかわいくて大好きでした。ねこちゃんが見てないときに、ふくちゃんにズリズリ甘えては迷惑そうな顔で逃げられてました。今はただただ寂しい。

| コメント(9) | トラックバック(0)

Jump!