[henyohenyo]ふくちゃん

昨日は、ふくの死後49日目でした。
仏教では、閻魔大王の裁きによって今後の行方が決まるとう大事な日。
人間(仏教徒)の場合には法要が行われる日でもあるので、「いつもと違うことをしよう」と事故現場に行って少し悲しくなったりもしましたが、その後はジムにいったりご飯をもりもり食べたりして元気に過ごしました。

ところでうちのリビングには猫用のタワーがあるのですが、このタワー、「ねこちゃん用に」と高いお金を出して購入したにもかかわらず、当のねこちゃんは全然使ってくれない。その代わりふくちゃんが愛用してくれて、毎夜毎夜タワー最上階のハンモックで毛づくろいしたりうたた寝したり、こんな風に無意味に手を前に突き出したり(笑)して過ごしていました。

だから、ふくの死後はてっぺんのハンモックと2段目の棚板を入れ替えて、お骨は棚板に飾っています。

で、昨日の23時くらいだったかな?
ねこちゃんがやけに落ち着き無くウロウロしていると思ったら、やおらこのキャットタワーを上り、最上段のふくのお骨をかぎまわったと思うとハンモックへ。そのまま当たり前のように毛づくろいして、当たり前のように眠り込んでしまいました。

え~~!?これは完全にふくの行動パターン!
しかもここ1年以上、ねこちゃんはタワーにほとんど寄り付きもしなかったのに、です!

どちらかというと現実的な思考回路のカズオさんも、さすがに「なにこれ!?不思議!」と目を丸くしていました。

ふくはもうとっくにどこかに飛んで行ってしまっていると踏んでたのですが、もしかしたらずっと近くにいたのかなぁ。そして、49日だから(しばしの)お別れの挨拶をしてくれたのかなぁ。そんな気持ちになる、不思議な出来事でした。

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昨夜、なんとなく過去の日記を一部読み返してみました。

そうそう、この日記、なんと98年から書き続けてるんだよ。知ってた?
今年で12年目です。我ながら、スゴ。

2000年と2001年あたりをざっと読み返したんだけど、自分、若いなぁ。
ちょうどその頃の私と同い年のhaseriちゃん、大丈夫だよ。私もあの頃は今のあなたと同じように悩んでました〜。

そしてまた不思議なこと発見。読み返すまですっかり忘れていたんだけど、家の近所で野良の子猫に偶然遭遇して、妹と里親を捜したことがあったんです。この子猫が、なんとオスの黒猫だったそうで。

「もしかしてふくちゃんの祖先だったりして!?」とカズオくんに言ったら、「というか、ふく本人だったりして!?」と返してきたので、「あぁ、それは素敵だね」と盛り上がりました。

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今日も少しだけしか泣かずにすみました。みなさんの温かいお心遣いのおかげです。ありがとうございます。

だんだんと、自分の気持ちをコントロールできるようになってきました。
もちろん今でも、悲しい方に目を向けさえすればいつまでだって大声で泣けます。大きすぎる喪失感は、まだまだふさがることはないでしょう。
だからこそ、あえてそちらに目を向けずに過ごす努力を始めることにします。

昨日購入した本が手元に届きました。「サイモントン療法」という、がんの治療に用いられるイメージ療法についての本です。一見ペットロスとは関係ないようなのですが、自分の感情をコントロールすることでいかに幸せに生きるか、ということがテーマになっているので今の自分に合っているかなと。

先ほど読み終えましたが、とても救いになった気がしています。

本書を通して感じたのは、まず一番大切なのはネガティブな(不健全な)感情をいつまでもほじくり返していてはいけない、ということ。そんなことは誰も望んでない。だれも幸せにならない。自分も、家族も、友人も、もちろんふくちゃんも。

それからこの本では、ほんの少しですが亡くなった方との魂の交流についてのエピソード(オカルト的ではない)が書かれています。それを読むと、先日の小さな黒いクモはやはりふくちゃんだったと信じられるし、これからもいつでも遊びに来てくれると思えるようになってきました。
だから今日は、長らく気になっていた私の部屋の古くて暗い雰囲気の家具を廃棄してみました。陽気なふくちゃんがしょっちゅう遊びに来たくなるような場所を作っておきたくて。おかげで部屋が明るくなり、私も久々に体を動かすことができました。

興味のある方は是非この本を手にとって読んでみていただきたいのですが、最後に、私が特に感銘を受けた一文を(ペットロスの人用にごく一部だけ形を変えて)引用したいと思います。

生物の、生まれてから死を迎えるまでの目的は、唯一、「幸福を経験する」ということです。

自然界や宇宙は、死も含め、何ひとつとして無駄なことや意味のないことはない、と信頼しましょう。

私たちはふくちゃんからたくさんの幸福をもらい、ふくちゃんにも幸福を経験させてあげたと信じています。
そして、彼の生涯は短かったけど、残された私たちにとってとてつもなく大きな意味があった。
だから、ふくちゃんは全然「かわいそう」じゃないんだ。

それでも、もう泣かないなんて言えません。というか、絶対泣きます。
どんなにがんばっても寂しいものは寂しいですから。でも、それはそれでいいと思ってます。体と心の健康を損なわない程度に心ゆくまで泣いたら、きっと自分の中のふくちゃんを連れて前に一歩踏み出せると信じています。

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今日は、今のところ一度しか大泣きしてません。
大泣きの理由は、やはり寂しさもありますが、友達からのメッセージがうれしくて泣いたのでした。久しぶりに、悲しさ100%じゃない涙が出ました。

私には素晴らしい家族と友達がいる。
まるであたりまえのように思っていたことが全然あたりまえじゃないと、改めて気づかされる毎日です。
いつまでもメソメソしてちゃいけないな。

今は、自分が心から納得できて少しでも幸せになれるような死生観を身につけたいと思っています。
今のところ、このページに書いてあることが一番すんなり心に落ちてきたので紹介します。
http://sourumeito.sakura.ne.jp/R18.htm
これとは全然違うアプローチで書かれた書籍も1冊購入してみました。明日届くと思うので、良かったら紹介します。

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今日ちょっとだけ元気なのは、実は理由があります。

昨日の夜、夕食後にリビングでぼんやりしてたら目の端に動くものが。
何気なく目をやると、そこには小さな黒いクモがいたのでした。私が気づくと同時にカズオさんも気づいて、ふたりでじーっと眺めていると、そのクモ、どう見ても遊んでるの。私の電子ピアノの楽譜立てから糸を出して10cmほど降りてきたと思ったら、上につーっと昇る。また降りてきたと思ったら昇って。3、4回やってから、その場に止まってこちらをじっと見てました。
思わずカズオさんと顔を見合わせて「あれはふくだね!」と笑ってしまいました。

私、別にオカルトとかスピリチュアルに興味は無いけど、誰がなんと言おうと、あれはふくちゃんだと確信しました。イキモノの殻を脱いで自由になったふくちゃんは、きっとこれからもクモや風や何かの動物になって、時々私たちに会いに来てくれるはずだと。だから寂しくない。寂しいと思うのは(できるだけ)止めようと心から思えました。

ちなみにそのクモは、その後ちょっとしたらどこかに消えてました。

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さて、私はこのうっとおしいブログを、もしかしたらいつか私と同じ状況で苦しんでいる人が見てくれるかもしれないと思って書いてます。だから、これも参考になるかもしれないから書くのですが、私は、ふくちゃんの最期の姿を思い出すと感情が乱れてどうしようもなくなります。呼吸がおかしくなってパニックを起こしそうになります。あの光景は、たぶん一生私の脳裏から消えることは無いでしょう。

事故死であれ病死であれ、愛したものの最期の姿はおそらくそんなに美しいものではありません。亡くなる直前の様子など、何度思い出しても胸が張り裂けそうになると思います。

だけど、その記憶だけは無理してでも封印すべきだと思う。
そんなのは彼らの本来の姿じゃないし、かわいそうな姿を何度もかみしめるのは彼らに失礼だと思うから。

私はふくちゃんの魂を自分の中に入れて、これから一緒に生きていくつもりです。
考えてみれば、すでに亡くなった私の祖父たちも同じなのです。私の中にいて、私の一部になってくれている気がしています。おじいちゃんたちは私が子供の頃に亡くなっていたり、実感が沸かない状況で亡くなってしまったこともあって特に強く意識したわけではありませんが、いつの間にかそういう感覚になっていました。

ふくちゃんが私の心の中に「居る」のなら、私が考えたり感じたことが伝わってしまうかもしれない。
それなら自分の最期の姿なんて何度も見せたくない。
そんなの、あまりにかわいそうじゃないですか。

だから、もし私と同じように最期の姿がフラッシュバックしてその都度苦しんでいる人がいるなら、記憶がよみがえりそうになった瞬間に無理やりねじふせて追い払ってほしい。
思い出しているのは自分自身です。がんばって自分で追い払おう。

私は、これだけでもずいぶんと楽になりました。ホントだよ。

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コメントありがとうございます。ホントすみません。
とりあえず、1週間くらいはこんな感じで気持ちの変化をつづってみようと思います。
それまでにはちょっと元気になるといいな。

今日は雨でした。
これでようやく、道路に流れたふくちゃんの血が洗われる。

臆病な私は、事故現場を掃除することができませんでした。血を洗い流してしまうことが、ふくちゃんの生きた証をひとつ消すことになるような気がして。でもその一方で「見た人に万一心ないことを言われたら」と思うといてもたってもいられなかった。だから早く雨よ降れと念じ続けていたのです。

これでまたひとつ、区切りがついた気がする。

ほっとしたせいなのか、今日は身体がおかしいです。だるくてだるくて動けない。
震えるような号泣は今のところ一度も無し。でも、だらだらと勝手に流れ出すような涙は昨日より多いかな?

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今の自分の気持ちをできるだけ冷静に分析してみました。

もともと、まだ子供猫であるふくちゃんに対する依存の気持ちは無かった(ねこちゃんに対しては、ある)ので、いなくなったことで「どうしよう」といった混乱はありません。
もちろんそれだけではなく、周りにいて助けてくれるカズオさんやねこちゃんの存在に支えられているおかげなのですが。

また、不幸が重なった上の事故だと考えているので、見知らぬ誰かや自分を責める気持ちをほとんど持たずに済んでいます。まったく無いと言うとウソになりますが。

では今の私の悲嘆の原因は何なのかというと。
もう一度会いたい、抱きたい、と不可能なことばかりを考え、それが叶わないことを思って涙を流してます。
また、「あの事故の前まではあんなに幸せだったのに、なぜ今はこんな気持ちでいなくてはならないんだろう」といった、これまたどうしようもないことを悲しんでいます。

ここまで考えて、ひとつのことに気づきました。

いま私が涙を流している原因はすべて「自分基準」だと。
ふくちゃん自身を思って泣いているのではなく(もちろんそういう時もゼロではないのだけど)、かわいいふくちゃんに会いたいのに会えない自分、悲しみにくれている自分を嘆いているのだと。

このことに気づいたからといってすぐさま感情をコントロールできるかといえばそんなことは無いのですが、結構自分勝手な理由で泣いているんだな、やっぱり結局は自分自身の問題なんだな、と改めて気づいたわけです。

ふくちゃんは、生前と何も変わらず...いやむしろ生前よりしっかりと私の中に息づいている。
それなのに、自分で自分を悲しみの底に追い込むようなことは意味が無い。そんなこと誰も望んでない。

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ふくちゃんみたいにあっけらかんと逝ってしまった子は、またすぐに生まれ変わってくる気もするんですよね。神様から「もうちょっと落ち着いて修行してきなさい」って言われて。
もし生まれ変わってきてくれたら、見た目は違うかもしれないけどまた会えるかもしれないなぁ...とか思うと、ちょっとだけ楽しくなります。

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